さて、今回はバッハを取り上げますが、バッハを弾く上でとても重要なことがあります。それは、バッハの時代にはまだ「ピアノ」という楽器が存在しておらず、チェンバロであったということです。チェンバロは弦を引っかいて音を出すため、ハンマーで弦を叩く現代のピアノのように音の強弱は単一鍵盤上では付けられませんでした。ですから、バッハの楽譜にある強弱記号は後世の編集者が付けたものにほかなりません。ロマン派以降の作品に見られるような作曲者自身による細かな演奏指示は入っていませんので、楽譜としての完成度が低いことから、いろんな人がいろんな解釈で楽譜を出版しているわけです。
では、ここで問題なのですが、楽譜に細かな指示がない以上、自由に弾けばよいのでしょうか?私は、若いころ本当にこの問題で悩みました。バッハほどいろんな音楽ジャンルのプレーヤーが取り入れている作曲家は他にいませんから、自分の感ずるままに自由奔放に弾いてもいいのではないでしょうか?
確かにそのとおりなのですが、ちょっと考えてみてください。バッハが生きていた時代から既に260年経っています。その260年間、あなたや私以外にバッハの解釈を試みた人は一人もいなかったのでしょうか?そんなことはないですよね?今日のこの日まで、星の数ほどの作曲家や音楽家がバッハのいろんな解釈を自由に進めてきて、その結果、現代のピアノに最も適しているであろうという解釈が今日の楽譜となって数々出版されていると思うのです。私は、この260年という時間がその成熟に十分足りる期間であろうと考えます。
しかしながら、ここにバッハの魅力というか難しさというか特徴が現れてくるのですが、どんな出版社の異なる楽譜でも必ず「ええ~、そうかなあ?」と疑問に思う強弱や演奏指示にぶち当たります。私は、ここにバッハを弾く「個性」というものの出番があり、自分でじっくり時間をかけて弾いている中でどうしてもしっくり来ない個所は、その流れにおいて自然であると判断できるのであれば、「改訂」してもよいと思っており、実際に自分でも変えてしまっています。ただ、何でもかんでも変えてよいわけではなく、その根拠となるものにクラシック・ピアノを弾くためのロジックが存在します。そのロジックはとても合理的、かつ説得力のあるもので、日々のレッスンの中で一つひとつ身体で覚えて身に付けてゆくものです。そして、そのテクニックをどれだけ持っているか?どれだけ教えられるか?がピアニスト、ピアノ教師の技量であると感じます。
「イタリア協奏曲」は器楽曲でありながら、「協奏曲」という名前が付いています。これは、オーケストラとともに演奏するというわけではなく、この時代の協奏曲に多く見られる「リトルネロ形式」で書かれていることから、この名前が付いたものとされています。楽譜によってはSolo, Tutti の区別が書かれてあり、協奏曲としての対比が取りやすくなっています。
- 「第1楽章」アレグロ - この楽章のポイントとなるのは、スタッカート、レガート、トリルの入れ方です。また混同されやすいのですが、バッハの場合、3声・4声になっていますので、フォーレのように左手と右手が一連の同一主題を演奏することはあり得ません。ご注意ください。Tutti とSolo の指示がある場合は、やはりその性格の違いをきちんと表現すべきだと思います。
- 「第2楽章」アンダンテ- さて、この楽章は特に完璧な「脱力」が出来ていないと弾けません。かつ、現代のピアノで弾くバッハの真骨頂ともいえる「表現力」を試すことができます。極端なことを言えば、一音一音の解釈をしていってもいいくらいで、こういうところに「バッハは時間がかかる」という理由があります。私は、この一音一音どのように弾いてゆくかを考えるのがとても好きで、こういう作業はピアノから離れて楽譜と鉛筆だけで行います。もう一つ、この楽章はウナ・コルダ、ダンパーともにとても細かにハーフで踏み変える、踏み分けるペダリングのテクニックが要求されます。
- 「第3楽章」プレスト - この楽章はプレストですからもの凄く早いです。かつ、軽快さが必要ですので、この楽章を弾くための「指の形」や「タッチ」を考える必要があります。この楽章のTutti の展開の仕方を見るだけでも、私はバッハが天才とされる所以が理解できます。第2楽章と異なり、この楽章のペダルはとても少なく、軽いものです。場所によっては、ダイレクト・ペダルの方がいいかも知れません。
さあ、これを読んでバッハにハマッてくれる人がどのくらい出てきてくれるか?とても楽しみです。バッハに捕まると、夜がとても短くなってしまいますよ~!!(笑)