さて、今回はアップライト・ピアノに関する情報不足が引き起こす「大惨事」についてお話します。これまで、これに関してきちんとわかりやすく説明した人は、私の知っている限りでは一人もいません。私自身、自らこの事実を論理的に解明できるまで、調律の講座や一部の優秀な調律師さんから得た情報を除き、残念ながらピアノ教師、教授の先生方からこの話を聞いたことはありません。少なくとも、きちんと理解できていないピアノの先生方が大多数であることは事実で、今回このことを知って「肩の荷が下りる」人もいれば、「がっかりしたり、不服に思う」人も出てくるでしょう。でも、音楽大学ですらこのようなことを教えませんので、誰も知らなくても不思議ではないのかも知れません。

1、何故、指を上げなければならないのか?
前回、【その12】で「アップライト・ピアノでできないこと」を列挙しました。では何故早い連打やトリルが弾けないのでしょうか? それは、アップライトのアクションがグランドの「ダブル・エスケープ」と異なり、「シングル・エスケープ」の機能しか持っていないことによります。アップライトもグランドも、キーの深さは大体1センチです。グランドの場合、キーを底まで押した後、半分くらいキーが戻ったところで次の音を出す(そこからキーを再度押す)ことができるのですが、アップライトの場合は元の位置までキーが完全に戻らないと次の音が出せません。グランドのように途中からもう一度キーを押しても、音が出ません(音抜け)。すなわち、単純に計算して、アップライトは「グランドの倍、指を上げる必要がある」ということです。

2、何故、多くの先生は「いつも指を上げなさい!」と教えるのか?
アップライトの場合、前述のようにキーが完全に戻るまで次の音が弾けないのと、キーを完全に戻さないと音がきちんと切れないため、「いつも指を上げなさい!」と言うのです。でも、ここに大きな「落とし穴」があり、アップライトの指の上げ方でそのままグランドを弾くと、音が切れてしまうのです。極端に言うと、アップライトでは「レガート」で弾けていたのに、グランドだと「スタッカート」のようになってしまうのです。この事実を知っているのといないのでは、「天地の差」があります!ほとんどアップライトしか弾かない先生、あるいはグランドを持っていてもこの違いをきちんと理解出来ていない先生は、口を揃えて同じことを言うわけです。

3、きれいなレガートのスケールが弾けない理由
アップライトでハーフタッチを弾くと音が抜けてしまいますが、グランドだときれいな軽いハーフタッチを弾くことができます。すなわち、グランドのハーフタッチで軽く指を残すと軽い音のレガートを作ることができますが、アップライトで同じことをすると、音が抜けてしまい、何も弾けません。ここに、アップライトできれいなレガートが弾けない理由があります。アップライトで弾けるレガートは、音を大きく残すだけのレガートですので、どうしてもデリカシーに欠けてしまいます。

4、指を上げることが起こす弊害 その1
アップライトの弦の長さは機種が違ってもおおよそ似たり寄ったりですが、グランドの場合、機種によっては平気で1メートル以上弦の長さが変わります。極端な例で行くと、1m50cmのミニ・グランドと2m90cmあるベーゼンドルファーのフルコンでは音の立ち上がりに要する時間が異なります。特に低い音の弦は物凄く長いですから、音の立ち上がりに時差が生じます。アップライトのタッチで毎回1センチずつ指を上げてベーゼンのフルコンを弾くと、それでなくても無駄に倍の高さ指を上げているため、

・音が切れてスタッカートのようになる
・毎回微妙にキーを弾き遅れる
・長い弦の音の立ち上がりの時差により、低い音の発音タイミングがズレる

普段アップライトで練習して発表会で急にコンサート・グランドを弾くと、みんなこの現象を起こしてしまい、しかもハーフタッチの練習をしていませんから、すべてフルタッチで弾くため最初から最後までフォルテになり、さらにペダルをふんだんに使ったら、それこそ「大惨事」どころの騒ぎではありません。これが発表会ならまだいいですが、音楽大学の試験やコンクールだったらどうなるか、容易に想像できますよね?

5、指を上げることが起こす弊害 その2
毎回不必要に指を上げるわけですから当然指は緊張しますし、弾いていない隣の指もそれに吊られて力が入ります。弾いている時の腕が「コチコチ」に硬くなっているはずです。こんな硬直した身体で弾く音楽に、何の意味があるのでしょうか? 「脱力」すると不必要に指を上げないので、キーを弾く指もそれ以外の指も緊張から開放されます。身体が緊張から開放されると、不思議なことに「心」も開放されます。表情からは、「笑み」がこぼれます!
さあ、ここからが問題です。事実としてアップライトの機能に制限がある以上、どう頑張っても【その12】で列挙したテクニックは身に付かず、弾けない曲は弾けないままです。日本でのピアノ・レスナー人口は凄まじい数で厚い底辺を持ちながら、世界に通用するピアニストになれる人が極端に少ないのは、やはりグランド・ピアノを弾くテクニックを持ち合わせていないため、みんな指を回すことだけに集中する「曲芸」大会になってしまい、音色に変化を付ける(歌う)ことができず、芸術点が入らないからなのです。何でもかんでも「指を上げろ!」「指を立てろ!」と言われるわけですから、指の長い人はヒーヒー言って止めてしまうわけで、指の短い「曲芸大会」に残れた人だけが、さらに曲芸に磨きをかけるわけです。これ、本当に芸術でしょうか?音楽でしょうか?

私は、上記のように事実として「出来ないこと」は「出来ない!」とはっきり言います。でも、無意味に「何でもかんでも指を上げろ!」「指を立てろ!」とは絶対に言いません。必要な時に指を立てられれば、普段は指を伸ばしたままでもいいのです。普段アップライトで限られた練習しかできないとしても、スタジオに来てコンサート・グランドで確かめてもらって、納得して楽しく弾ければ、私はそっちの方が「音楽」だと思います。

一つ言い忘れたのですが、【ピアノあれこれ-その5】でアップライトよりクラビノーバ!と申し上げたのには理由があります。ヤマハもカワイもほとんどのデジタル・ピアノは、アップライト型でもグランドのアクションを採用しているので、ハーフタッチや早い連打、早いトリル、早いスタッカートが可能なのです。もちろん、音はサンプリングですが、少なくともアコースティックのグランドに近い練習ができます。技術の進歩はこういう場面で活用すべきだと、私は常々思っています。